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アントニオ猪木が創設した新日本プロレスのあれこれ

 

こんにちは。人材開発の冨田です。

先日、アントニオ猪木さんが亡くなられましたが、彼が伝説のプロレスラーだったというのをご存知でしょうか。知っている人はどれくらい居るでしょうか。もしかしたら、政治家のイメージが強いかもしれません。あるいは、「元気ですかー!」と言って「ビンタ」する人というイメージかもしれません。

そこで今日は、アントニオ猪木さんが作った「新日本プロレス」の10大事件について紹介します。とりわけ事件が多かったのは1980年代です。そしてその多くは、アントニオ猪木が仕掛けた案件です。
参考文献はこちら

 

①「猪木舌出し」事件

1983年6月に行われた、第一回「IWGP」の決勝戦は、アントニオ猪木vsハルク・ホーガンでした。大方の予想では猪木が優勝すると思われていましたが、なんと猪木が「舌出し失神KO」で負けてしまいます。

がしかし、これは猪木の一人芝居だったという説があります。

何十年も経った後に、関係者から色々と証言が出てきて、その「一人芝居説」が有力視されています。そして猪木は、当時直近の坂口征二や新間取締役専務、奥さんの賠償美津子にも話していません。その真相は、ついに墓場まで持っていくことになりました。

 

②「クーデター未遂」事件

猪木失神KO事件から2ヶ月後、新日本のフロントがクーデターを起こしました。山本小鉄や大塚営業部長が、猪木や坂口、そして新間の失脚を狙い計画を企てました。

これには理由があります。当時、猪木がブラジルに設立したバイオリサイクルの会社「アントン・ハイセル」があり、事業に大失敗して最大32億円の借金を背負ってしまいました。

そして、猪木が新日本プロレスの売り上げからアントン・ハイセルに横流ししているのではないかという疑惑が持ち上がり、クーデターを起こしたというわけです。

このクーデターにより、猪木や坂口らを退任させましたが、結果からいうと、3ヶ月で元に戻りました。理由は、テレビ朝日の重鎮が、猪木を戻さないとテレビ放送を打ち切ると一刀両断したからです。

 

③タイガーマスクが衝撃デビュー&引退

社会現象を巻き起こした初代タイガーマスクですが、活動したのは1981年から1983年にかけてのわずか「2年4ヶ月」だけです。短命のスーパースターでした。

佐山聡がタイガーマスクを辞めたきっかけは、内部でクーデターが起きたことや、自分の結婚式を海外でひっそりとやってくれと言われたりして、新日本のフロントへ嫌気がさしたからとのです。その後佐山聡は、本来やりたかった格闘技路線へ転向していきます。

 

④第一次UWFの旗揚げと崩壊

UWFは、クーデター事件により新日本を追放された新間寿が設立した団体で、1984年に旗揚げしました。

当初は猪木移籍の受け皿として設立しましたが、結局猪木は参加せず、それにより、予定していたフジテレビの中継も無くなりました。

ただ、そこから前田日明が中心となり、格闘技色の強いプロレスへ舵を切り、更に元タイガーマスク、佐山聡の参加もありUWFを成功させました。

しかしながら、格闘技路線の強すぎる佐山聡とは方向性の違いで対立し、第一次UWFは結局1年半という短命で終わることになりました。

 

⑤前田日明のUWF移籍と新日追放

1984年4月に旗揚げした第一次UWFから参戦していた前田日明ですが、前述のとおり、佐山聡との確執により喧嘩マッチを仕掛け、これを機にUWFは崩壊します。その後、新日本プロレスへ業務提携という形で復帰します。

しかし、プロレスの戦い方には馴染めず、格闘技スタイルを貫き通していました。そんな折、1987年11月の維新軍との6人タッグで、長州力への「顔面キック事件」で新日本プロレスをクビになりました。

 

⑥長州が新日本プロレスを離脱

クーデター後、大塚営業部長が新日本プロレス興行(後のジャパンプロレス)を設立し、「全日本プロレス」と業務提携を結びました。そこに長州率いる維新軍が参加します。つまりこれは、全日本プロレスのマットへ長州力が上がるという事を意味します。

全日本プロレス参戦のその裏には、ジャイアント馬場と締結した確約書(報酬10%増)がありました。

ただ、次第に選手と大塚ら経営陣との意見対立により、1987年5月に長州は正式に新日本プロレスへ復帰することになりました。

長州力は「自分の価値」を客観的に分かっていて、馬場や猪木にいいタイミングで売り込みが出来たというわけです。

 

⑦新日「3大暴動事件」

1984年6月長州力乱入

第二回IWGP優勝戦、猪木対ホーガンの試合中に突然長州が乱入し、両者をラリアットで場外に落としました。そして、セコンドによりリングに上げられた猪木が勝利するという結末に、客席が「暴動」しました。

1987年3月海賊男

猪木対マサ斎藤の試合に、謎のマスクマン「海賊男」が乱入し、マサ斎藤と自分自身に手錠をかけ、控室へ連行しました。その後マサ斎藤が戻り、反則をおかして負けるという結末に、客席が「暴動」しました。

1987年12月TPG(たけしプロレス軍団)

たけしプロレス軍団が、ベイダーを刺客として送った試合で、急に対戦相手を変えてしまいました。たけしプロレス軍団が、メインの猪木対長州戦を、猪木対ベイダーに変更を要求し、猪木がそれを承諾した事に、客席が「暴動」しました。

これらすべては、猪木の仕掛けたアングル(シナリオ)ですが、ファンが納得しなかったために「暴動」という事件につながりました。

 

⑧3団体オールスター戦

1979年8月に、東スポの創立20周年記念として開催された、「全日本」「新日本」「国際」の3団体によるオールスター戦です。

メインは、「猪木&馬場」対「タイガージェットシン&ブッチャー」戦でした。結果的に、BI砲(馬場&猪木)の試合はこれが最後となりました。

 

⑨全日本との「外国人選手引き抜き」戦争

それは1981年に勃発しました。まず、新日本が全日本から引き抜いたのがブッチャーです。その報復として、全日本はタイガージェットシンを引き抜きました。

それだけではなく、全日本はさらにスタンハンセンまで引き抜きました。

その後馬場、猪木の会談により、1982年に「引き抜き防止協定」が締結されたのですが、まだ止まらず、全日本がダイナマイトキッドを引き抜き、新日本がブロディを引き抜きました。

ファンの間では、この引き抜き合戦はアングルなのでは?とウワサされました。

 

⑩「猪木vsアリ」世紀の1戦

1976年6月「世紀の凡戦」とまで言われた猪木対モハメドアリ。もともと、アリがリップサービスで言った言葉を、猪木が真に受けて挑戦を表明するところから始まりました。

負けるわけにいかないボクシング世界チャンピオンのアリは、とんでもない試合のルールを突きつけました。しかし、このルールを呑まざるを得ない猪木は、リングに寝た状態からキックをするだけのスタイルとなりました。後にこれは「アリキック」と呼ばれました。

しかし、この「世紀の凡戦」は、将来の総合格闘技の原点として評価される一戦となりました。

 

最後に

ということで、アントニオ猪木さんの追悼とともに、新日本プロレスの歴史を少し紹介させていただきました。プロレス好き以外の人にはまったく刺さらない内容だったかもしれませんが。。

それでは、最後にアントニオ猪木さんが残した名言で終わりたいと思います。


この道を行けばどうなるものか

危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし

踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる

迷わず行けよ 行けばわかるさ

 

 

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